【田中久重】70代で新技術へ!古い経験を捨てずに時代を渡った職人の生涯

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【図解】田中久重の生涯と相関図

田中久重に見る「70代で新技術へ」の真実

長く仕事を続けていると、「自分の経験はもう古いのではないか」と感じる場面があります。

田中久重(たなか ひさしげ)の人生は、この問題を考える材料になります。

久重は、からくり、時計、蒸気機関、電信と、扱う技術を何度も変えました。重要なのは、毎回ゼロから別人のように生まれ変わったわけではないことです。

むしろ彼は、過去の技術そのものではなく、そこで身につけた考え方や作り方を次の分野へ移していました。

田中久重の面白さは、何種類もの機械を作ったこと以上に、「古くなった経験をどう使い直したか」にあります。

万年時計は「完成」ではなく、次へ進める証明だった

1851年、田中久重は万年自鳴鐘を完成させます。

時刻だけでなく、暦や二十四節気、月の満ち欠けまで一台に組み込んだ精密な機械でした。

ここだけを見れば、時計職人としての到達点と言ってもよさそうです。

ところが久重は、その後も時計の世界だけにとどまりませんでした。

この点は重要です。

一つの分野で評価を得ると、人はその分野に自分の価値を結びつけやすくなります。しかし久重にとって、万年時計は「自分は時計の人間だ」と決めるものではなかったように見えます。

時計製作を通じて蓄積したのは、時計そのものの知識だけではありません。

複雑な仕組みを分解して考えること。多数の部品を組み合わせること。動きを確かめながら調整すること。

その力は、別の機械にも持ち込むことができました。

からくりと蒸気機関は、本当に別の仕事だったのか

1853年、55歳の久重は佐賀藩の精煉方に迎えられます。

ここで扱うことになった蒸気機関は、これまでのからくりや時計とは明らかに違う技術でした。

しかし「違う技術だから、過去の経験は役に立たない」とはなりませんでした。

久重たちは書物を読み、雛形を作り、さらに長崎ではロシア軍艦を実際に検分します。

ここから見えてくるのは、久重が一つの完成した技術を持っていたというより、未知の機械を理解する方法を持っていたということです。

見て、考えて、作って、確かめる。

からくりでも時計でも繰り返してきたその仕事の進め方を、蒸気機関にも当てはめていきました。

専門分野は変わっても、仕事の基本動作は変わっていなかったのです。

久重の強みは「何でも知っていたこと」ではない

田中久重は、後世から見ると万能の発明家のように見えます。

しかし、天文学、蘭学、蒸気機関、電信まで最初から知っていたわけではありません。

必要になるたびに学んでいます。

京都では天文学に触れ、広瀬元恭のもとで蘭学を学びました。佐賀では西洋の機械技術と向き合いました。

つまり、久重の強みは知識を大量に抱えていたことだけではありません。

経験を積んだ後でも、知らないものに対して「学ぶ側」に戻れたことにあります。

長く同じ分野にいるほど、自分が教える側、分かっている側になりやすいものです。

久重は年齢を重ねても、新しい分野ではもう一度、分からない側から始めています。

この姿勢がなければ、50代以降の技術転換は難しかったでしょう。

明治維新で失ったのは、技術ではなく「仕事の場所」だった

1868年、日本は明治時代に入りました。

その後、藩という仕組みそのものが消えていきます。

久重にとって大きかったのは、新しい技術が現れたことだけではありません。

それまで技術を使ってきた佐賀藩や久留米藩という仕事の枠組み自体がなくなったことです。

ここで考える必要があるのは、「経験が役に立つかどうか」は、本人の能力だけで決まらないということです。

どれほど技術を持っていても、それを必要とする組織や制度がなくなれば、以前と同じ働き方は続けられません。

久重が直面したのは、まさにその変化でした。

彼は昔の仕組みが戻るのを待つのではなく、自分の技術を必要としている新しい場所を探しました。

この選択が、後の東京行きにつながります。

70代で電信へ進めたのは、過去を捨てたからではない

1873年、久重は工部省の求めに応じ、久留米から東京へ移ります。

すでに70代半ばでした。

次に扱ったのは電信です。

時計とも蒸気機関とも違う、新しい分野でした。

それでも久重は、1874年には電信機の製造を始め、1875年には銀座に田中商店を構えます。

ここだけを見ると、「70代で新技術へ挑戦した」という年齢の話に見えます。

しかし、本当に興味深いのは年齢そのものではありません。

久重は、若者のように過去を全部捨てて一からやり直したわけではないのです。

機械の構造を読む。必要な部品を考える。実際に作り、動きを確かめる。

それまで何十年も繰り返してきた仕事の型を、電信という新しい分野へ持ち込んでいました。

変えたのは「経験」ではなく、経験を使う場所だったのです。

田中久重が残したものは、一つの発明品ではない

田中久重は1881年、83歳で生涯を閉じました。

その仕事は二代目久重へ引き継がれ、後の芝浦製作所、さらに現在の東芝へつながっていきます。

ただ、久重の人生を「東芝の源流を作った人物」とだけ見ると、大事なところを見落とします。

彼自身は、生涯同じものを作り続けたわけではありません。

からくり、時計、蒸気、電信。

時代が変わるたび、仕事の対象は変わりました。

それでも、仕組みを理解し、必要なことを学び、自分の手で形にするという姿勢は残りました。

田中久重の人生を見ると、経験を生かすとは、昔と同じことを続ける意味ではないことが分かります。

過去に身につけたものを、新しい場所で使える形に組み替える。

そこに、田中久重という職人の面白さがあるのだと思います。

ブログ用特典「史実の裏話」

【糸のもつれを解く、天才の無言の執念】

田中久重は、普段はめったに口を開かない無口な男でした。

しかし、近所の子供たちからは「ぎえもんさん」と慕われ、戸外で戯れる姿はまるで「あほう」のようであったと伝えられています。そんな彼が残した有名な人生哲学があります。

「人間が一度思い描いたアイデアは、成就しないことはない。例えば糸のもつれを解くようなもので、注意深く物事に打ち込めば、どんなもつれも解けぬことはない。それが解けないのは、打ち込み方が足りないのである。」

どれほど新しい技術や未知の分野に直面しても、焦らず注意深く一から打ち込む。その愚直で柔軟な姿勢こそが、50代での西洋科学への適応や、70代での電信機開発というセカンドキャリアを支えた、最高の武器でした。

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