【図解】栗本鋤雲の生涯と相関図


栗本鋤雲に見る「50代からの再出発」の真実
長く働いていると、自分が積み重ねてきた経験が、ある日突然「古いもの」になることがあります。制度が変わる。組織が変わる。技術が変わる。それまで評価されていた知識や肩書きが、同じ価値を持たなくなることもあります。
幕末から明治を生きた栗本鋤雲(くりもと じょうん)も、何度もそうした変化に直面した人物でした。彼の人生で興味深いのは、失敗を避け続けたことではありません。むしろ、立場や環境が変わるたびに、それまで身につけてきたものを別の形で生かしていったことです。
エリート医師から、遠く箱館へ
栗本鋤雲は1822年、江戸の幕府医官の家に生まれました。学問を修め、やがて幕府の医師として働くようになります。順調に進めば、そのまま医官として安定した道を歩むこともできたはずでした。
しかし栗本は、西洋の蒸気船や新しい技術に強い関心を示します。その行動が幕府医官として問題視され、やがて江戸を離れ、蝦夷地(現在の北海道)の箱館へ赴くことになります。
当時の箱館は、江戸とは環境も役割も大きく異なる土地でした。ところが栗本は、そこで医師としての仕事だけに閉じこもりませんでした。薬草、薬園、医療施設など、現地で必要とされているものへ次々と目を向けていきます。
それまで持っていた知識を、その土地に合わせて使い直していく。後の栗本の人生につながる姿勢は、すでにこの時期から見えてきます。
箱館で得たものが、外交の世界につながった
箱館で栗本が出会った人物の一人が、フランス人宣教師メルメ・ド・カションでした。栗本は彼との交流を通じてフランス語や西洋事情への理解を深めていきます。
箱館へ行かなければ、必要になることのなかった知識だったかもしれません。しかし、その場所で必要だったから学んだ。その経験が、後にまったく別の仕事で生きることになります。
箱館での働きを経て江戸へ戻った栗本は、目付、軍艦奉行などを経て外国奉行となりました。医師として出発した人物が、今度は外交の現場に立つことになります。
横須賀製鉄所の建設など、幕府とフランスとの関係が重要になる中で、箱館時代に築いた語学や人脈が役立っていきました。
一見すると遠回りに見える経験が、後になって別の意味を持つ。栗本の経歴には、そうした場面が何度もあります。
医学所の建設を襲った風雪
箱館時代には、大きな困難もありました。栗本が関わっていた医学所の建設中、風雪によって建物が倒壊します。建設を続けるには、資金の問題も乗り越えなければなりませんでした。
そこで栗本は、遊郭側に積み立てられていた資金を借り受け、将来の治療費と相殺する仕組みを用いて医学所の整備を進めます。
現代から見ると非常に特殊な方法ですが、ここにも栗本の行動の特徴が表れています。理想的な条件が整うのを待つのではなく、その時点で使えるものを探し、現実的な方法を組み立てていく。
栗本の人生では、困難そのものよりも、その後にどんな方法を選んだのかが重要でした。
幕府がなくなるという変化
その後、栗本は外国奉行として外交に携わるようになります。1867年にはフランスへ渡りました。
しかしその頃、日本では大政奉還が行われ、徳川幕府そのものが大きく姿を変えようとしていました。
これは単なる人事異動ではありません。それまで所属していた組織や役職の前提そのものがなくなる変化です。
幕臣として歩んできた栗本にとって、これまでとは比較にならない転換点でした。新政府に仕える道もありましたが、栗本はそこから距離を置きます。
そして50歳を過ぎた頃、彼は再び別の世界へ入っていきます。
50代から新聞人へ
栗本が次に選んだのは、新聞の世界でした。『郵便報知新聞』に関わり、政治や社会について文章を書くようになります。
若い頃は医師。箱館では医療や地域の事業に携わり、その後は外交官。そして50代からは新聞人。
職業だけを見ると、まったく違う道を歩いているようにも見えます。しかし、その間にはつながりがあります。
医師として培った学問。箱館で得た語学や人脈。外交を通じて得た海外事情への理解。そうしたものが消えることなく、形を変えながら次の仕事へ持ち込まれていきました。
栗本は毎回、過去を捨ててゼロから始めたわけではありません。それまでの経験を抱えたまま、新しい場所へ移っていった人物だったとも言えます。
栗本鋤雲の人生に残るもの
栗本鋤雲の人生には、大きな肩書きの変化が何度もあります。医師から箱館へ。箱館から外交へ。幕府の終わりを経て、新聞の世界へ。
そのたびに状況は変わりましたが、それまで身につけてきた知識や経験まで消えたわけではありませんでした。
むしろ、場所が変わるたびに、それまでとは違う使われ方をしていきます。
年齢を重ねると、過去の経験が増える一方で、それまで通用していた方法が合わなくなることもあります。栗本の人生を見ていると、そこで必要なのは過去を否定することでも、昔の立場に戻ることでもなかったことが分かります。
幕府という大きな時代の枠組みが消えた後も、栗本鋤雲の人生は続きました。
そして50代を過ぎても、彼は新しい場所で自分の役割を見つけていきました。
そこに、栗本鋤雲という人物の面白さがあるのだと思います。
ブログ用特典「史実の裏話」
【勝海舟への『下がれ!』一喝に秘められた、栗本鋤雲の絶対的義憤】
明治の旧幕臣たちの会合において、栗本鋤雲が爵位を得て海軍卿などの高官に登りつめていた勝海舟に対し、満座の中で「下がれ!」と烈火の如く怒鳴りつけた出来事は、今も語り継がれる幕末維新の有名な一幕です。
一見すると、新政府で栄達した勝へのただの「嫉妬」や「旧幕臣の意地」に見えるかもしれません。しかしその本質は、全く異なるものでした。
鋤雲の怒りは、江戸無血開城の裏で、罪なき盟友・小栗忠順が新政府軍の手によって一切の弁明の機会すら与えられず無残に斬首された際、自らの保身と政治的譲歩のためにこれを見殺しにした勝の「冷酷さと欺瞞」に対する、峻烈な道徳的義憤だったのです。
この出来事を誰よりも早く知った福沢諭吉は、勝の変節を厳しく批判した自著『瘠我慢の説』の写本を、他の誰よりも早く鋤雲に贈り、その矜持を称えました。
己の不格好なプライドではなく、友の無念と信義のために最後まで牙を剥き続けた鋤雲の姿は、「大節を堅持した亡国の遺臣」という名にふさわしい、誇り高き生き様そのものでした。


コメント